1)祈りと墓標とお位牌@防災イベントを本気でやってみてます。
2025年3月15日に、市役所前広場で「防災キャンプ」イベントをやりますが、
今回見送った課題の中にも、いくつも素晴らしいことがあるので、
それを記事にしてみようかなぁ?と思っています。
1.仏教系大学の災害ミッション
わたしは「大正大学」という仏教系の大学で「仏教学部」にいたんですが
仏教学部なので、同級生は寺のご子息ばかりになるので
東日本大震災の時に、「カタリバ」活動として、有名になった
同級生のお寺に足を運ぶことになりました。
首都圏以外では、平時から「寺」は地域の拠点であることが多く、
わたしの同級生のお寺でも、マルシェやイベントをしたり、
文庫や心の相談室活動などをしているお寺は少なくありません。
当然ながら、災害時は「二次拠点」となっているわけです。
自分の大学を宣伝するわけではないですが、大正大学は総合仏教…
つまり、各宗派が学べるシステムになっているので、
本山と各寺院を結ぶ名簿がデジタル化されていたんですが、
被災したら、全く機能しなくなり、大学でバスを用意して、
OBの安否を確認しつつ、学生ボランティアを派遣し、
二次拠点の支援をしたのでした。
2.葬儀ってなんだろう?カタリバの背景
在学中はね…毎週「礼拝(らいはい)」の時間があり、
なおかつ、お塔婆を書くバイトをしたりするんで、
逆に「葬儀」での読経に対して、とくにありがたみがなかったんですね。
ところが、被災地へ足を運んで、すさまじい状況と、
ご遺族やご遺体への状況を見て、どれほど葬儀や祈りが大事なのか、
たぶん、初めて…その意義を痛感したのです。
わたし自身、父や妹を見送った時、「葬儀」という一連の儀式に対しては
記憶に残らないくらいなんですね、いろんな手続きが忙しくて。
でもね、記憶に残らないくらいになるから、乗り越えていかれるのかな、と。
ご遺体が見つからなければ、「別れ」に踏み切れない。
ご遺体があっても、焼き場が故障している状況では、見送れない。
一方、ご住職たちが走り回って、簡易的な法要をしましたが、
とてもではないけれど、間に合わないし、
ご遺族の心は、置き去りになってしまう…
「カタリバ」は、そのような背景の中で、生まれたのだそうです。
3.ご位牌を取りに戻って、帰らぬ人となった方々…
もうひとつ、衝撃的な課題となって心に残ったのが、
なにかを取りに戻って、「帰らぬ人」になった…その上位に
「お位牌」があったことです。
お位牌ってね、浅草の仏具街へ行くと、かなりなリーズナブル価格です。
お位牌が「お位牌(故人の魂をうつしたもの)」になるためには、
「魂入れ」という儀式を行うんですが、
それがない状態のお位牌は「からっぽ」なわけなんですね。
ただの「木造細工」です。
面白いことに、地方へ行けば行くほど、仏壇って大きいんですね、
先祖伝来のものを伝え合っていますし、お位牌も何本も入っているから。
あんまりにもお位牌が多くなってくると、それをまとめる
「繰り出し位牌」「先祖位牌」というものを作るんですが、
タイミングがいつかなぁ…というのと、それらと「過去帳」は
一対になるんですね、お位牌には、それぞれの戒名をいれられないので。
なので「取りに戻った」お位牌は、どれなんだろう?
というのが、まあ、仏教や葬儀や仏具側が思うところなんですが。
4.携帯位牌と祈りと
お位牌を取りに帰って、逆に命を落とさないためには…と
私自身は、仏教側にいたので、ずっと考え続けていたら
「携帯位牌」なるものが、発売されるようになりました。
それいいかもなぁ…と考えていたら、
防災云々ではなく、四国巡礼などの御朱印長と一緒に
持ち歩くのが流行しているんだとか。
なるほどなぁ…家族の魂と共に、巡礼しているのだとするなら
たとえ業(ごう)があったにしても、浄(あらわ)れそうな気がする。
で、今回「非常持出袋に携帯位牌を」とうたおうと思って
葬儀社の友人と話したら、結局の堂々巡りになってしまいました。
5.有事の「祖先礼拝」
宇田川さんだったら、お位牌持っていく?
と聞かれて、即答です。
「持ってかない」
先祖伝来の命は自分に落ちているとも思っているし、
もう一回作ることも可能だと思ってますし、、、
私の実家は、今2本、夫の実家が 3本(繰り出し位牌あり)
有事で何かあるなら、まとめてもいいかもしれない、みたいな。
葬儀社の友人も、仏具屋さんも、寺の友人も、持っていかないそうです。
どれを持ってくか、っていうのもあるし…
毎日(先祖を)祈ってるんだから、有事には 一族を守ってくれよ?みたいな。
6.津波で流された「お墓」
もともと、当初の仏教では「偶像崇拝」すらなく、
ストゥーパ(塔)を作り、歴史を経て 現在の「お墓」になりました。
ただの「石」かもしれないんですが、わたしとしては、
宝篋印塔だったり、石仏だったり、民俗学的な仏教遺跡が好きで、
かなり時間をかけて、あちこちまわりました。
なんでかなぁ…結局「祈りの空間」が好きなだけなのかもしれない。
でも、訪れて、例えば宝篋印塔の主、刻まれた銘文、
そういうのに触れた瞬間に、ああ、ここに生きている、と思うんですよね。
何世紀も経て、いま、ここに魂を残そうとした、その祈りが生きてるんです、
わりと一人で感動しております。
それがね…東日本大震災でも、能登でも‥‥流されて、ぐちゃぐちゃになった。
これも、衝撃です。
わがやとご縁があるわけではないですが、
歴史的な方のお墓とか、訪れるのが嫌いじゃなかったので…
ただただショックでした。
墓石のマッチングを手伝ったけど、全部戻せるものでもなく(~~)。
手を合わせる場がなくなる…まあ、現在廃れつつあるのかもしれないけれど、
祈るってなんだろうなぁ…と考えてしまいました。
7.防災の課題「おくりと心と」
文化人類学や民俗学のカテゴリでは、葬儀や法要(万燈会や灯篭流しも含む)を
「おくり」といいます。
神道では、人が亡くなると「諡(おくりな)」をつけるのですが、
魂はずっと存在していて、体はなくなっても、魂が神の国に戻る…みたいな感覚かな。
黄泉の国…という「死者の国」が、「生」の延長に並列的な次元で存在し、
魂は普遍的…という考えは、アジアでも少なくない慣習です。
日本の仏教サイドであっても、その神道のベースがあって、
「おくり」の儀式ができあがってきたんですね。
なんか、「有事のお位牌問題」を考えていたら、
友人と「そもそもの歴史」まで語り合う結果になってしまいました。
仏教側からも、防災側からも、葬儀社側からも、外れてしまう…
「祈り」と「おくり」の本質…
なぜ祈るのか、なぜおくるのか…
生きているからこそ、祈るし、おくるんですよね。
死者を尊び、いま、自分の命を尊ぶ。
その本質について、平時に、もっともっと話し合えたらいいなぁ・・・
そんなふうに、考えています。
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